寺院紹介

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鎮護山圓融寺 自證院(自証院)

所在地 〒162-0067 東京都新宿区富久町4-5
交 通 都営地下鉄線/曙橋駅 徒歩10分
バス/練馬車庫行富久町 徒歩1分
開 創 寛永17年 (西暦1640年)
本 尊 阿弥陀如来

自證院は、市谷の高台に位置し、新宿という大都会にしては、静寂の中にあります。
開基は、尾張大納言徳川光友卿の夫人千代姫の生母振(ふり)であって、そのお振の方は大猷院殿(三代将軍徳川家光)の局の一人で寛永17年8月没寂され、法名「自證院殿光山暁桂大姉」と号し、正保4年三代将軍より御朱印寺領二百石を拝領しています。
当寺に葬られるにあたり、現在の市谷の地に壱万六百余坪を賜わって、牛込榎木町よりここに移転しました。
後、寛文元年(1661年)千代姫によって本堂建立が行われ、更に門前の地、三百余坪を買上げて民屋を開き、霊廟掃除の役に供えたのです。
寛永5年(1665年)幕府の不受不施派禁断の令により、以後天台宗に改められ、上野東叡山寛永寺より法印信祐(中興)を招いて住持とし、当寺、台宗の祖となり、これより寺号を「鎮護山、圓融寺、自證院」と称することとなり、前天台座主、本照院一品親王の命により、東叡山輪王寺の常院室となりました。
その後、享保15年(1730年)近隣より出火の為、類焼したので元文3年(1738年)尾張徳川家戸山屋敷内の丸太節木作りの観音堂を拝領して本堂、中門等が再建され、以後、寺域内の諸堂宇等、建立され明治維新に至るまで、広大な寺容を備えていました。
明治4年、明治維新政府の社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半は国有地として没収されました。
明治末年、経済的な寺門経営上の困難もあって、墓地は現在の中野区上高田に移転、改葬が行われ、広大な周囲の寺域も樹木を伐採して、宅地として、売却、貸付が行われた為、当時の東京市の都市化進展とあいまって、周辺は宅地化され寺地は著しく縮少され、さらに昭和3年、境内地の一部は、小学校建設用地として東京都に譲渡され、これに際し本堂、庫裡の移転、改築が行われました。
昭和10年代以後、大東亜戦争の激化につれて、梵鐘、銅像などの金属什宝物は強制献納され、創建当時の財物は次第に失われつつあったが、ついに昭和20年4月13日の東京大空襲によって、本堂、庫裡その他、什宝物の一切は灰燼に帰してしまい、現在の本堂、庫裡は昭和52年に再建したものです。
 
○文豪、小泉八雲とのゆかり
小泉八雲(Lafecadio Hearn)は明治29年9月東京大学で教鞭をとる為、松江より上京して西大久保に移るまで、5年余り、当自證院の門前に邸を持ち、日々、老杉の生い茂った当院の墓地を逍遥することを楽しみとし、また当時の住職とも心安く、仏教にも深い造詣を有していました。八雲の葬儀は明治37年、当院において営まれ、遺骨は、雑司ケ谷墓地に葬られています。
法名 正覚院浄華八雲居士

 

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