寺院紹介

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清林山和光院 大泉寺

所在地 〒110-0001 東京都台東区谷中6-2-13
T E L 03-3821-5504
交 通 地下鉄千代田線/根津又は千駄木駅 徒歩8分
JR 山手・京浜東北線/日暮里駅 徒歩13分
開 創 慶長16年 (西暦1611年)
本 尊 阿弥陀如来

当寺は、谷中墓地近くの寺町の一角にあります。明治戊辰戦争の折り焼失した山門は、平成3年に再建されました。その山門をくぐると、正面の本堂を中心に、左に客殿、庫裏、右には墓参用休憩所、水屋などが配されています。

 

 

当寺は、清林山和光院大泉寺と号し、慶長16年2月15日、浅草新堀東光院の末寺として神田北寺町に、権大僧都慶賢法印によって創建されました。のち寺地が御用地となったため、慶安元年11月21日現在地に移され今日に至っております。その間幾度となく災禍にあいました。6世豪栄法印の代の元禄16年11月類焼しましたが、幸い7年後の宝永7年秋に客殿が新造されました。また明和9年2月の大火では、土蔵以外すべてを焼失、直ちに客殿・庫裏の再建に着手し、完成を目前に再び延焼の悲運に見舞われました。しかし、伊賀屋宇右衛門が大施主となり、9世良弁法印の代の安永9年に本堂・客殿・庫裏が無事再建されました。その建物も関東大震災により倒壊しましたが、18世信道和尚は苦心の末、昭和6年に本堂、同9年には客殿・庫裏の復興を成し遂げました。戦災も無事くぐり抜け、平成元年以降、山門の再建、本堂・客殿の屋根瓦葺替、客殿の増改築などの復興整備工事が進められ、寺観を一新しました。
寺町谷中は、岡倉天心が日本美術院を旗揚げした地でもありますが、そのきっかけは明治31年の「美校騒動」でした。美校校長の職にあった天心は、怪文書により誹謗中傷の恰好の餌食となり辞任に追い込まれました。天心を慕い、この事件に憤慨した橋本雅邦、高村光雲ら教授34名は、総辞職することを決意し、その声明を発表しましたが、その一大事に集合した場所が、大泉寺でした。当寺は明治の日本美術勃興期の大切な舞台ともなったのです。

■当寺に眠る文化人

○戸張孤雁(彫刻家)
明治15年日本橋の商家に生まれ、明治34年に画家を志して渡米。ニューヨークの美術学校で彫刻家・萩原碌山と運命的な出会いをします。碌山が28歳、孤雁が25歳のときのことです。孤雁は帰国後、谷中の七面坂下に住み、碌山との親交を一層深めます。明治43年碌山の急死に直面し悲しみに打ちひしがれますが、その日から碌山の使い残した粘土で、憑かれたように彫刻に打ち込み、「おなご」「虚無」などに代表される数多くの作品を残し、昭和2年12月46歳で没しました。

 

○山路家四代(歴算家)
山路家は、江戸時代の和算家、天文家として有名な家柄。初代の弥左衛門主住(ぬしずみ)(1704-72)は関流の第3代として和算上の多くの業績を残しております。2代目久次郎之徴(ゆきよし)は西洋暦法を多年研究。3代目の才助徳風(よしつぐ)(1761-1810)は、寛政2年天文方となり、西洋暦法にて七曜暦を作成、4代目弥左衛門諧孝(かいこう)(1777-1861)は、文化7年天文方に任じられ、嘉永2年(1849)に「新法暦書」数理撰術により賞せられています。山路愛山は曾孫。
文政12年(1829)高橋景保がシーボルト事件に関わったため、その後任として蘭書和解御用を命ぜられ、安政3年(1856)著書調所が創設されるまでその任についていました。