寺院紹介

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宝珠山智妙院 福泉寺

所在地 〒151-0053 東京都渋谷区代々木5-2-1
交 通 小田急線/代々木八幡 徒歩5分
東京メトロ千代田線/代々木公園 徒歩5分
八幡下バス停 徒歩3分
代々木公園西門バス停 徒歩5分
開 創 建暦2年 (西暦1212年)
本 尊 薬師瑠璃光如来

福泉寺の創建は、寺の文書によりますと「建暦二壬申歳、始結閣以来庵主持僧諸宗交代不知其幾世代云々」とあります。
伝えによれば、源頼家の旗本近藤三郎是茂の家人、荒井外記(げき)智明なる武士が、修禅寺事件(1203)以後代々木の地に隠居し、建暦2年夢の中に大神から宝珠の如き鏡を感得したので、名を宗友と改め、鶴ケ丘八幡宮を勧請して庵を創建したといいます。
創建以後久しく荒廃していましたが、江戸時代に至り、正保元年(1644)住職傳誉中興開山傅養律師)の代、江戸山王観理院支配に属して浄土宗より天台宗に改めました。
承応3年(1654)第二世乗正律師のとき堂宇を造営しますが、寛文4年(1664)第三世長秀法印のとき、四谷千日谷の火葬場が千駄ケ谷を経て今の代々幡に移されることとなり、浄地を求めて奉遷する必要を生じ、たまたま圓住院殿の後援を得て、寛文11年(1671)より翌12年にかけて、別当八幡宮と共に、現在の地に奉遷しました(中興開基)。
圓住院殿は大和添上郡岩掛城主山田政秀の六女と伝えられ元和八年(1622)紀伊徳川家藩祖頼宣(家康の第十子)の側室となり、当寺三世長秀と同族との関係によって、当寺で法要など営んだということです。
圓住院の娘松姫は上野吉井藩の始祖となる松平氏に嫁したところから、福泉寺は吉井松平家の崇敬をも得て次第に寺運は隆盛し、「江戸名所図会」所載の如き堂宇が整いました。圓住院及び松平家では、仏像、仏具、田畑など多く当寺に寄進し、その存続発展に資するところが多かったといいます。
幕末にいたって火災にも遭い寺運衰え、廃仏毀釈の余波をも蒙り、その寺領も官に没収若しくは四散し、第六十一世(創建以来の推定、第六十三世亮貞が定める)貞憲の代で神仏習合の時代は終わりました。
六十二世智貞は本堂庫裡を改築し寺風を改めましたが、震災に耐えた堂宇も昭和20年の戦災で全焼、その後昭和34年本堂再建。昭和56年客殿復興、平成4年墓地東面の擁壁修復、平成8年庫裡復興し、戦後50年をかけてようやく寺風が整いました。

 

○齋藤弥九郎
幕末の剣豪で、名を善道、号を篤信齊といいます。剣と砲術に令名があり、江川太郎左衛門と共に江戸湾の測量、品川砲台の建設等に参画したことで知られています。練兵館の館主として指導したのは、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、井伊直勝等門下三千余人に及んだといいます。当寺練兵館は江戸三大道場のひとつで、「位の桃井(士学館)、技の千葉(玄武館)、力の齋藤」といわれました。安政5年(1858)開墾地として寺領地より三千三百七十五坪の土地を購入し、三番町の道場から月に数回、門下生を連れて来て、自ら指揮をして開墾を行わせ、砲台築造の練習もしました。その後代々木付近一帯に茶園を開き、代々木茶の名をおこしました。晩年隠居場として「代々木山荘」と名付けここに移りました。明治4年10月24日没、74歳、遺言で代々木山荘に葬られますが、のちに小石川昌林院に移葬、弥九郎の遺志を生かすため、改めて同38年当寺に改葬しました。
 

 齋藤弥九郎の墓