寺院紹介

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金剛山薬王院 龍寳寺(龍宝寺|通称:川柳寺)


所在地 〒111-0051 東京都台東区蔵前4丁目36番7号
T E L 03-3851-3587
交 通 都営地下鉄浅草線/蔵前駅 徒歩5分
都営地下鉄大江戸線/蔵前駅 徒歩4分
開 創 慶長4年 (西暦1599年)
本 尊 如意輪観世音菩薩

龍宝寺は、慶長4年(1599年)4月に、徳川家康侯の命により、戦勝祈願・天下泰平を祈念するために、江戸城の東南の鬼門にあたる神田駿河台の地に約3,000坪の境内地を賜って、建立されました。開山の初代住職となられた比叡山正覚院住職の豪海大僧正は、天海大僧正(上野寛永寺を開山、埼玉県川越市の喜多院の中興の祖)の法兄にあたります。この後、法縁により寛永寺の末寺として歴代住職が法灯を守り続けております。
豪海大僧正は、寛永2年までの26年間龍宝寺の住職として、天下泰平を祈願致しましたが、その間、徳川方が関ケ原の戦いに勝利し、江戸幕府が開かれ、大阪冬の陣・夏の陣を経て、天下統一が成されました。
龍宝寺が、江戸の都市計画のために現在地の浅草蔵前に移転を命ぜられたのは、豪海大僧正没後10年を経過した寛永12年(1635年、三世本海権大僧都の代)の事です。駿河台の旧地とほぼ同一の替地を賜り、後に江戸名所図会にも載るような壮麗な伽藍が、新堀川の東岸にそびえるようになりました。しかし、その後は、たび重なる世状の変転に伴って次第に衰微し、とくに明治以降は寺域を大幅に狭められて今日に至っております。そういう状況の中にあって僅かに誇れる事は、関東大震災・大空襲を初めとする罹災にもかかわらず、開山当時のご本尊が立派に現存していることです。縁起によれば豪海大僧正が、京都の宇治平等院から招来して本尊とした一木造りの如意輪観世音菩薩ですが、40年に一度のご開帳以外は秘仏となっており、残念ながら通常は拝観できない事となっております。
また、龍宝寺は、別名「川柳寺」とも呼ばれていますが、これは「川柳」の始祖柄井八右衛門(1718~1790)の墓がある事によります。八右衛門は、龍宝寺の門前に住み、名主差配をしていましたが、その一方、川柳と号し、前句付の点者として名を馳せ、その後、俳号の川柳が文芸名となりました。

 

○都旧跡 柄井川柳墓

柄井川柳(1781~1790)は、龍宝寺の門前に住み、名主差配をしていましたが、その一方、前句付の点者として名を馳せ、その後、俳号の川柳が文芸名となりました。柄井川柳の名は十三代まで受け継がれました。初代川柳の命日にあたる9月23日は、川柳忌と呼ばれ、毎年多数の川柳家有志による句会と法要が開催されています。
また、初代川柳辞世の句碑『木枯や跡で芽を吹け川柳』があります。(全国の川柳家有志により三建)

 

○不動板碑(台東区指定文化財)
この板碑は、中央に不動明王の種字を刻むため不動板碑と呼ばれ、区内現存の板碑を代表するものの一つと言われています。
碑の表面には、大きな蓮華座の上に不動の種子を大書し、その下方には、蓮台にのせた「父」の字、「正応六季八月日孝子敬白」の銘を刻み、その両側には、
六大無碍常瑜伽 四種曼荼各不離
三密加持速疾顕 重々帝網名即身
と「即身成仏義」という経典の一節を刻んでいます。銘文によって、鎌倉時代の後期の正応6年(1293)に造立者の父を供養するために建てられたものです。