寺院紹介

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東叡山寛永寺 養壽院(養寿院|通称:笠森稲荷)


所在地 東京都台東区上野桜木
交 通 JR 山ノ手線/鴬谷駅 北口より徒歩5分
開 創 寛永年中 (西暦1624~1643年)
本 尊 阿弥陀如来

養寿院はその山号が示すように、徳川歴代将軍の菩堤寺であった寛永寺の子院で、寛永年間初期に創建された寺です。寛永寺の多くの子院は、当初諸大名の菩提寺または宿坊として建てられたものでした。慶安4年(1651)に大猷院(三代将軍家光)様の御廟が出来てからは、将軍様のお成りが年中行事になり、諸大名もこれに従って寛永寺への参詣を例とするようになります。その時、参列の諸大名は、自分の利便のために「宿坊」とか「宿檀」といった言葉をあてはめた「装束着替所」として、江戸中期(1720年頃)までの間に36坊もの子院を次々と建立したのです。
養寿院もその中の一子院でありまして、松平筑前守及び越後松平光長を宿檀として、開基第一世権大僧都廣海和尚によって建立された寺であります。
創建当初、寺は旧寛永寺地域(上野の山)の西辺にありましたが、江戸の大火や明治維新後の寛永寺の再建などにより山の中を二転三転し、現在の寛永寺裏側に大正6年に移転改築をしたのであります。
その後、再び東京大空襲で焼失しましたが、当地に再建し、順次整備を行い現在に至ったのであります。
ご本尊は当初、観世音菩薩(准提観音)でありましたが、現在は阿弥陀如来(江戸時代の坐像)であります。江戸時代、江戸百観音の二十三番札所として、上野では清水観音堂、護国院の観音様とならんで信仰を集めていました。
山形立石寺の優田上人の述作された準提菩薩念誦功徳記(明治26年、再刻養寿院蔵版)や、高野山の僧侶妙端によって記された准提菩薩霊験記(天保12年、再刻養寿院蔵版)に、その霊験の有難いことや、老若男女を問わずに功徳、ご利益の多いことが記されています。
江戸時代から上野の山は、将軍様の菩堤寺としての寛永寺があり、多くの寺院が軒を連ね、桜の花に彩られた文化と信仰のメッカとしておおいに賑わったのです。

 

○笠森稲荷(非公開)
明治以後、江戸百観音の札所として信仰を集めていた当院に笠森稲荷尊が遷されました。
門前に美人で評判の茶屋ができたりして参詣で賑わったと伝えられ。江戸から明治、大正と唄いつがれてきた手鞠うたに「向こう横丁のお稲荷さんへ、一銭あげて、ざっと拝んでお仙の茶屋に……」とあります。
この笠森稲荷の本尊は今の天王寺の境内にあった養寿院末寺福泉院に祀られておりました。
明治3年この寺が廃寺になり現在は養寿院に遷つされております。

 

○文化財史跡
仏頂尊勝曼荼羅(非公開)
養寿院の寺宝として平成3年、台東区の有形文化財に指定された曼荼羅があります。
これは比叡山延暦寺の僧願海が、孝明天皇の皇子祐宮(サチノミヤ)(後の明治天皇)の無事成長を祈るため、嘉永7年(1854)京都の復古大和絵師、冷泉為恭(レイゼイタメチカ)に描かせたものです。為恭独自の画風を盛り込んだ絹本着色の秀逸な作品とされております。